2025年4月27日日曜日

父が認知症になり、介護施設へ預けた。

ぼくの父は現在75歳で、既に後期高齢者だ。

ぼくは父が40代の頃にできた子どもなので、周りの人の両親と比べると、非常に高齢だと思う。

父はコックで、特にフレンチが専門だった。

ぼくが生まれる前にはフランスで修行もしてきていて、ぼくが物心付いた頃には既にホテルの料理長を務めていた。

朝はぼくが起きる頃には仕事に行き、夜は夕食も終わって宿題をやっている頃に帰ってきていた。

そのため、子供の頃は父とあまり関わった記憶が無い。

父は父で、ぼくがかなり変な子どもだったこともあり、接し方がわからなかったのではないかと思う。


ぼくは子供の頃、食事があまり好きではなかった。元々食が非常に細く、健康診断で常に「非常に痩せすぎ」と評価され、ちゃんと家で食事を貰っているか、と担任に聞かれたことも何度かあったように思う。

おそらくそれを気にしていた両親は、ぼくに様々なものをたくさん食べさせようとしていた。

父は時間が無いのに、頻繁にぼくに料理を作ってくれた。

けれど、ぼくはそれを食べきることがいつもできなかった。

「あと一口!」と母に言われることが、とても苦痛だった。

食事が薬を飲むように簡単に済めばいいのにと、よく考えていた。

こういった意味で、ぼくは父の仕事が正直あまり理解できずに居た。


父は殆どの時間を仕事に費やしていたこともあり、料理以外にあまり趣味が無かった。

他にあるとすれば、高校の頃にやっていた野球や、ドライブが好きだった。

一方母は絵、音楽、小説や詩、ファッションなどインドアで文化系の趣味が多かった。

友だちもあまり多くなかったぼくは母の影響を強く受け、母の趣味に傾倒していった。

元々ぼくは運動があまり得意ではなかったため、父にキャッチボールに連れて行かれても、ボールはまっすぐ飛ばないし、投げれたボールは怖くて取れず、公園の葉っぱやアリを眺めていたらしい。

結局ぼくは父と共通の話題が殆どなく、料理以外の知識が疎い父のことは無知な人だとすら思っていた。

 

ぼくが父について感じ方が変わってきたのは、自転車を始めたことがきっかけだった。

元々中学の頃に発症した喘息の治療のために始めた唯一のスポーツだったが、ぼくは自力でどこへでも行ける自転車の虜となり、日本全国さまざまなところへ旅に行くようになった。

父は車が好きだったので、道には詳しく、目的地への行き方をよく一緒に話すようになった。

そのうちぼくは道中で自炊をしたり、山小屋で働いて賄いを作ったりするうちに、料理という創作活動の楽しさや、人に「美味しい」と言ってもらえることの嬉しさを知って、父の仕事に対する感じ方が大きく変わっていった。

 

 

ぼくは博士課程を4年やったこともあり、就職が普通の人に比べると随分と遅くなってしまった。

ぼくが大学院生の間も、父はずっと働き続け、ぼくを養ってくれていた。

4年ほど前、やっとぼくは就職し、父は2年ほど前、退職をした。

 

ぼくはやっと自立し、父の仕事対する理解も持てたので、これから父の料理の知識や、若い頃の渡仏の経験を共有してもらおうと思っていた矢先、父の体調に変化が起き始めた。

 

母から連絡が来て、父がおかしいというのだ。一年前の今頃のことだった。

例えばどれが朝の薬かわからなくなったり、ズボンを上半身に着ようとしたり、電話のかけ方がわからなくなったり、といった認知障害。 

それからバランス感覚が掴めず、歩き方がふらついていて足元がおぼつかない、しょっちゅう吐き気があるというものだった。

 

次の日に実家に帰り、とりあえず今住んでいるぼくの家に連れて帰り、数日様子を見ることにした。

様子を見ながら調べてみたところ、「レビー小体型認知症」という種類の認知症と症状が多く合致した。

いわゆる「アルツハイマー型認知症」のようにどんどん記憶を失うような認知症ではなく、レビー小体と呼ばれる異常タンパク質が脳神経細胞に蓄積し、神経を破壊する病気らしい。

症状は様々なところに現れ、運動障害として「パーキンソン病」、認知障害として「レビー小体型認知症」ということらしかった。

 

大変なことになったと思ったが、この病気の進行はそこまで早いようではなさそうだったので、これから様子を見ながらゆっくり向き合っていこうと思っていた。

実際、色々なことができなくなっていっても、料理だけは作れていたので、母との二人暮らしもなんとかなるのではないかと感じていた。

しかし父は他にも様々な持病(糖尿病、肝硬変、前立腺がん:完治済 など)があり、体調はこの1年ほどで一気に悪くなっていった。

今年のはじめには脳出血が起こり、そこから父は一人で立って歩くことがほぼ不可能になった。

実家は2階にあり、エレベーターもなく、もはや母一人に手に追える状態では無くなり、かといってぼくが実家に帰ったところでどうにかなるレベルはゆうに越えてしまい、介護施設へ入所することになった。

施設の手続きの間にも2回ほど入院があったが、4/11に施設に入所することができた。

母から連絡があってから、ちょうど1年後だった。

 

 

今回の施設入所にあたり、何度か入院中の父のお見舞いに行ったが、家に帰ってきて一緒に住んで欲しいと言われた日があった。

実はぼくは今年の秋から2年間の海外滞在が決まっていて、父はこの間に自分が死んでしまうと言うのだ。

この1年の体調の変化から、確かにそれは十分に有り得ると思った。

ただ、父はまだ元気だった頃、「おれはすぐに介護施設に行くよ、迷惑はかけない」と言っていた。

それから実家の荷物を整理していたとき、ぼくが生まれたときの父の手紙が出てきて、「日本にとどまらず、世界中を駆け回るような人材になって欲しい」と書いてあった。

一緒に住みたいという今の言葉も、若い頃の言葉もすべて本音だと思うけれど、ぼくは若い頃の父の言葉を選ぶことにした。

 

この間父に電話したら、施設の料理が美味しくないと言っていた。

今度面会に来てくれたときはレストランに行こうとも言っていた。

 

後悔しないようにしたい。

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